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冬木沢村 八葉寺

八葉寺(境内東西十七間、南北十九間。年貢地)村北にあり。昔は九品念仏の一派なり。今は府下大和町金剛寺の末寺真言宗となる。縁起を案するに当寺は、空也の開基なり。空也諱は光勝とて延喜三年に生る。容貌極て醜く右手を開かす。因て曠野に棄られしに、いつくともなく一の小鹿来りて撫育す。弱冠に及て尾州国分寺に於て薙髪し、其後諸国を経歴せしに、奥州二州は辺裔の地にて仏化至ること少きにより、自ら仏像及経巻を負来り、下野・陸奥の境にて北天に紫気あるを望み、これを寄異とし其地を尋て此に至り。康保元年一伽藍を創め、携へ来る所の弥陀の像を安置し、閼伽の井を掘りしか、中に八葉の蓮花を生せしとかや、因て如来山八葉寺と名け、又多年勝地をもとめ、今此処を得るとて悉地成就と号す。其時一人の老翁現し、空也に向ひ吾は伊豆神なり。此地仏法有縁の地なり。熊野の神と共に鎮護せんと云畢て失去ぬ。今の権現塚山、其地なりとそ。斯て空也此に住し、天禄三年九月十一日浄衣をつけ香炉を執り、弟子に告て曰、無量の聖衆来迎して空に満りと。遂に気絶ゆ。時に年七十なりしとそ。又縁起に空也を、延喜第三の皇子とす。元亨釈書に空也の伝を載て氏族をいはすとあれとも、延喜帝の御子といふ説も世に言旧たつことなれは、実しかありけんも知へからす。其伝は元亨釈書に詳なれば爰に略す。空也滅後の法系詳ならす。享徳二年当寺回禄に罹りしよし塔寺村八幡宮長帳に見ゆ。天正十七年伊達氏の乱に、住僧宥伝は葦名の重臣富田美作か弟なれは、葦名の為に恩を報せんとて防戦の用意をなしけるに、義広没後のよしを聞き宥伝力なく逐電せり。政宗この振舞をきき院院に火を懸しかは、一宇も残らす焼失す。昔は今の阿弥陀堂と共に一構の地にて、八葉寺の境内なりしと見ゆれとも、何れの頃よりか境地を分て今は二箇所となる。
阿弥陀堂 境内東西二十四間、南北三十間、免除地。八葉寺の東三十間にあり。是即ち八葉寺の本尊堂にて、此地を俗に会津の高野と唱へ、毎年七月朔日より十一日まて遠近の男女相集り、死者の為に遺歯を堂中に納め、奥院に香花・茶湯を奠し盂蘭盆会あり。此時諸村より市子あつまり、亡者の為に過去将来の事を語る。参詣多し。
二王門 南向。三間に二間。左右の力士各長五尺一寸。古物と見ゆ。
鐘楼 二王門を入て右にあり。八尺四面計。鐘の径二尺一寸。宝永七庚寅年秋七月一日、本願主冬木沢村佐藤太兵衛・浅野村束原八右衛門と彫附あり。
本堂 三間半四面。南向。四方に庇縁あり。本尊は空也持来る所の弥陀の像なり。秘仏にて見るものなし。又堂前に石燈籠六基あり。
空也水 本堂の辰巳にあり。三尺四方計の石槽を埋め、上に一間に三間余の屋あり。水最甘冷なり。災あらんとする時は水色変すと云。空也みつから掘りし所なりとそ。
閼伽井 本堂の前にあり。東西六間・南北三間。空也水を引て爰に注く。昔八葉の蓮華を生すといふは此池なりとそ。
十王堂 本堂の東にあり。二間四面。南向。
開山堂 本堂の西にあり。二間四面。南向。空也の木像を安す。長五尺三寸。冷骨癯貌生るか如し。空也自作るといふ。
奥院 本堂の北、石階を登り小山の上にあり。三間半四面。南向。弥陀の木像を安す。鰐口一口あり。径九寸余。もとは何れの堂に懸しにか。表裏に文字あり。表に□□□郷目札山熊野宮檀那□□視大夫、永禄八年乙丑六月吉。裏に梵文と奥州会津八葉寺鰐口旦那念仏衆、天正十三年乙酉七月廿五日、機興即生□一銭半文之助成重為自証化他善根偏抜苦与楽也 願主遠藤半内と彫附あり。磨滅して見えさる者六字。又南脇に一間半に一間の茶湯場あり。
空也塚 開山堂の北、奥院の西南にあり。後に古き数囲の欅あり。其前に空也大上人天禄三壬申年九月十一日入滅と彫附たる石塔あり。塔は近世の物なれとも古より空也の塚とす。又ここより戌の方に高三尺余の古き石塔を建て祖陵と称す。相伝えて、延喜帝の為に建しと云。文字見えす。
古碑 本堂より辰巳の隅にあり。高五尺計の野面石なり。草書にて文字を彫る。字体磊落みて古雅なり。其文如左。
千本松跡 本堂より四十間余辰巳の方にあり。空也千株の松を植し一なりとて、近頃まて老樹一株残れり。今は枯てなし。
宝物   
空也画像 一幅、筆者を知らす。自画なりとも云。
鹿角 一双。空也嘗て曠野に棄られし時、野鹿の助ありしゆえ、供養の為に其角を柱杖の頭につけ、磬をかけ念仏を唱へ修行すと云。一は六字の名号を彫り、一は彫附なく形も稍異なり。其図左に載す。
姥堂 境内東西五間、南北七間、免除地。阿弥陀堂の西北に続く。草建の年月を知らす。奪衣婆の木像を安す。八葉寺司なり。

 

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