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8月1日から7日は冬木沢詣り

毎年のお盆前の冬木沢詣りは、会津地方における御魂迎えの行事として、遠く室町時代から定着し、平成十二年の四月に国の重要無形文化財に指定されました。
この冬木沢詣りは、開山空也上人が、近在に打ち捨てられた遺骸を鄭重に弔とむらい、会津盆地の野辺であるこの地に埋葬されたことにより、わたくしたちの祖先は皆ここに鎮まっておられるとの信仰がはじまり、そこから、現代に至る五輪塔による納骨風習、そしてお盆前に各家庭にお戻りになる御魂のお迎えというかたちが出来上がってきたのだといわれております。会津総菩提所、祖霊集会の霊場と呼びならわされてきた所以であります。期間中、5日の午前10時からは県指定文化財の「空也念仏踊り」が空也光陵会によって、空也堂に奉納されます。

絵詞

 

開山空也上人

空也上人(九〇三~九七二)は、日本で初めて称名念仏(「南無阿弥陀仏」とおとなえする)を実践なされた高僧として広く知られています。なにぶん千年以上も昔のことなので、詳細は霧の中なのですが、日本全国を行脚され、身分の上下に関係なく救いの手を差し伸べられたことは確かですので、今なお多くの人々に尊敬され続けています。
寺伝によれば、上人は延喜三年(九〇三)に醍醐天皇の第二皇子としてご生誕されました(第三・第五皇子という伝もあります)。その時、右手の中に小さな阿弥陀さまの仏像を握られていたり、その後も夜泣きの声が「あみだあみだ」と聞こえるなど、尋常ならざることが続いたそうです。これを不吉と思われたからか、上人は鞍馬(京都盆地の北側)の山中に捨てられてしまいました。しかし不思議なことに、上人は鞍馬の山中で、親代わりの鹿や猿などに育てられ、立派に成長されました(これにあやかり、以前は八葉寺の空也堂に、我が子の健やかな成長を願って、鹿・猿と上人の絵を奉納する風習もありました)。上人は成長されるにつけ、各地で人助けをされながら、徐々にほとけの教えに帰依なされていきました。
やがて深く仏道を志すようになった上人は、二十代のころに尾張の国分寺でご出家なされ、以来「空也」と名乗られました。そこでまず三論宗(「空」について研究する学派)の修学に励まれましたが、もっと庶民の救いとなるべき教えを学ばれようと、国分寺には長く留まらず、播磨国揖保郡の峯合寺に居を移され、そこで数年かけて一切経(全てのお経。五千巻以上)を読解なされたのです。上人はこれを機に、ご自身の救済活動の理念、すなわち念仏行への確信を固められました。

絵詞3

八葉寺の開創

京での名声は高まる一方でしたが、もとより民衆の救済を第一に考え、名利を嫌う上人ですので、京のことは俗弟子・定盛に託し、平将門の乱で中断していた奥州巡錫に再び旅立たれたのです(牛に乗られてという伝もあります)。そしてはるか北方に紫雲がたなびくのを見られ、その地を目指されたところ、ついに会津に至られました。上人は冬木沢の地に特に強く霊気を感じられたため、そこに堂宇を建立され、背負ってこられた金銅の阿弥陀三尊さまを本尊として安置(現在は秘仏)されたのです。さらに、一つは浄水不足で悩む住民のため、一つは阿弥陀さまにお供えする閼伽水を得るため、独鈷杵でこの地を突き掘られたところ、たちまちに良質の泉が湧きました(現在の空也清水)。そしてこの湧き水がたまった池から八葉の白蓮が生じたので、建立された寺を八葉寺と名付けられたのです。時に康保元年(九六四)のことでした。以来、上人は往生なされるまで、会津の野辺であるこの冬木沢の地において、うちすてられた遺骸を集めてねんごろに供養し続けられたのです。時には周辺にも足をのばされ、牛沢村西の田沢川に無明橋を架けられるなど、各地で民衆のために活躍されました。その偉業がいかに民衆に歓迎されたかは、河沼郡牛沢村やその村西の花立山、同青津の立川、八葉寺近くの空也原などで、上人に関する逸話が地名の由来となっていることからも窺えます。
そして天禄三年(九七二)九月十一日、この会津の八葉寺で上人は極楽往生なされました。御歳七十でした。臨終のときは、浄衣に着がえられ、香炉を持ち、西を向かれて正座されたまま、閉眼なされたそうです。その瞬間、阿弥陀さまをはじめとする無量の聖衆がご来迎され、妙たえなる音楽が天に響き、美しい花が降りそそぎ、素晴らしい香りで周囲が満たされたといいます。そのなきがらは遺言によって、上人が生前、父である醍醐天皇の追善のために建立された石塔(「祖陵」と称される、現在の奥之院周辺)のあたりに、葬られたと伝えられています。以来八葉寺は、空也上人のご意思を継ぐ人々によって連綿と受け継がれてきました。現在でも、空也上人のご命日である九月十一日になると、境内でしめやかに供養がとり行われています。

 

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