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石塚六軒丁 蓮台寺

観音堂(境内東西三十一間、南北五十五間。免除地)此丁の西に続く。縁起を按するに康暦年中芦名直盛の草創なり。其後蒲生忠郷の母堂深く此観音を信し再ひ堂宇を造立し、荘厳を極め常に参詣して渇仰他に異なりしとそ。今に至るまて石塚観音と称し遠近尊崇すること大方ならす。慶長十八年此堂を以金剛寺の住僧宥伝に附与して別当たらしむ。六月十六日十七日会式あり。会津三十三所順礼の一なり。
二王門 三間に一間。左右に力士の木像を安す。
制札 二王門を入て右にあり。
本堂 五間四面。東向。「トチ葺」にて四方に庇縁匂欄を設く。皆黒漆の堅地にて種々の彫鏤彩飾あれとも、外面は風雨の為に剥て完からす。本尊十一面観音。三浦義連随身の像と云。長一寸八分。又千手観音の像あり。長三尺一寸。忠郷の母堂納る所なり。鰐口一口を懸く。奥州会津若松石塚観音堂(種字キリク)奉掛御宝前鰐口大領主源氏女御寄進御願如意満足 慶長十九甲辰年八月廿八日 大工天命野口外記 長谷川勝右衛門と彫付あり。
鐘楼 本堂の東南にあり。二間半四面。鐘径二尺五寸余。寛延三庚午年十一月十七日本山金剛寺二十四世現住法印宥道 石塚山院代法師宥英 冶工星野宗七喜起と彫付あり。銘あれとも載す。
別当蓮台寺 本堂の北にあり。真言宗石塚山と号す。開基詳ならす。慶長年中大和町金剛寺の末山となる(道場小路観音寺の縁起に因に、当寺もとは彼寺の末山なりしか、慶長三年上杉景勝奪て他の僧をして別当たらしむ。観音寺十二世信悦深く憤を含み、蒲生家再封の後具に状を訴へしに因り再彼寺に隷せり。時の住僧憤を発し火を放て殿宇を焼、我身も共に其中にありて焦死せりと云。後改て金剛寺に属す)。

 

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